2020年4月18日 12:00Forbes JAPAN

「われわれは戦争状態にある」「直面しているのは他の国や軍ではない。敵はすぐそこにいる。敵は見えないが、前進している」

フランスのエマニュエル・マクロン大統領が3月中旬の外出制限発表に際し、新型コロナウイルスを「敵」と名指して以降、この表現はパンデミック下の指導者たちの新たな紋切り型となった。

WHOのテドロス・アダノム・ゲブレイェスス事務局長は、新型コロナウイルスを「人類の敵」と表現し危機感を強めた。日本の安倍首相も4月7日の記者会見の中で「見えない敵」という表現を用いている。

「われわれ」は現在「人類の敵」である新型コロナウイルスを前にして家へと引きこもり、「パンデミック」という「戦争状態」を生き抜くサバイバル生活を送っている。政治の本質は「友」と「敵」との設定にあると戦間期に喝破したのはドイツの法学者カール・シュミットだったが、パンデミック下の政治的リアリティを支えているのはこのような「友敵」の論理だ。

「友」と「敵」とに分断され、多くの人々が家へと引きこもることを余儀なくされる世界情勢の中、21世紀のエコロジー思想を牽引する哲学者の一人であるティモシー・モートンが、新型コロナウイルスに関するエッセイを執筆する上でテーマに選んだのは、意外にも「共生(symbiosis)」という言葉であった。

「われわれは皆、共生的な存在であり、他の共生的な存在と絡み合っているのです」と述べるモートンは、新型コロナウイルスが拡大する世界について何を考えるのであろうか。

コロナに感謝? 哲学者ティモシー・モートンがエッセイを発表

米国ヒューストンにあるライス大学教授のティモシー・モートンは、人間とエコロジーの関係について研究を行う、21世紀を牽引する哲学者の一人だ。

「人間中心主義」を見直し「人間、動物、モノ」の境界線を新たに問いなおすモートンの思索は、”Dark Ecology”(2016)や”Being Ecological”(2018)など、いくつかの著作に結実している。すでに日本語でも『自然なきエコロジー』(篠原雅武訳、以文社、2018年)が翻訳されており、手に取ることができる。

そんなモートンが、パブリックセクターやアーティスト、メディア、思想家などをつなぎ対話を促す「STRP festival」というプラットフォームに寄稿したエッセイには、「ウイルスとの共生に感謝(Thank Virus for Symbiosis)」という、やや挑発的ともとれるタイトルがつけられている。

世間では「敵」と見なされているウイルスにあろうことか「感謝」を述べるモートンに対して、読者はさっそく面食らうことになるのだが、彼はこのエッセイの中で一体どのような思索を巡らしているのだろうか。

新型コロナ流行で、エコロジカルな好転に

まず、モートンがタイトルでも掲げている「共生(symbiosis)」とはどのような概念なのだろうか。

生物学では、異種の生物が相互的に関係を及ぼしながら生活することを「共生」と呼ぶ。モートンは”The Ecologocal Thought”(2010)において、種子と花粉がそれらを循環させる鳥や蜂と共生している例や、人間の胃がバクテリアやアメーバと共生する例など、世界を構成しているさまざまな共生関係を例示しつつ、あらゆる存在が「網の目」状に関係しあい、共生することによって成り立つ世界像を提示していたのであった。

”Thank Virus for Symbiosis”においても、このような異種の生物が相互的に関係を及ぼし合う「共生」の世界観が引き継がれている。

モートンがエッセイの中で紹介しているユニークな例は、新型コロナウイルスの影響で人間が家に引きこもったことで、人間と動物が共生する生態系が変化し、動物が人間の住む領域にまで戻ってきたという話だ。モートンは「コロラド州ボルダーの街路をマウンテンライオンが歩いている。通常は恥ずかしがり屋で、銃を持った人間の範囲内には入らないのだが」と述べる。

これと似たような現象が世界各地で起きている。例えば英紙ガーディアンは、山から降りてきたヤギの群れがパンデミックで人通りのないウェールズ北部のランディドノーを走り回る様子を伝えている。

さらにモートンは「このウイルスは汚染と炭素排出を大いに縮小させている」とも指摘している。

コロナウイルスの拡大が、企業活動を停止させ、数十億人を自宅にこもらせた結果、中国の湖北省からイタリア北部の工業地帯まで、世界各地の大気汚染レベルが急激に低下したという。

また世界最悪レベルの大気汚染に悩むインドでも、同様の理由で大気汚染が大幅に改善された。CNNによれば、デリーでは規制が始まった初日に微小粒子状物質「PM10」が最大で44%減少し、インド北部からは数十年ぶりにヒマラヤ眺望が可能になった。

今回の大気汚染の緩和は一時的なものにとどまるだろうし、きれいな空気を取り戻すために莫大な経済的犠牲を払って人々の外出を禁じることは得策とはいえない。一方で、WHOによれば、大気汚染に起因する肺がんや呼吸器疾患などで年間約700万人もの人が死亡しているという現実があり、環境汚染問題も深刻な問題であることには変わりはない。

パンデミックがもたらしたクリーンな空は、私たちの企業活動がグローバルな規模で停止されれば、どれほど速やかに大気汚染が改善されるかについて知らしめることになった。新型コロナの死亡率は大気汚染によって悪化するという研究もある。だとすれば、パンデミック緩和後は環境対策をより一層重要視していく必要があるだろう。

インド北部からは数十年ぶりにヒマラヤが見えるようになった(Getty Images)

このような現実の中で、コロナウイルスとの「共生」について語るモートンの議論が示唆しているのは、今地球上で起きていることは、政治家たちが「友敵」のレトリックを用いて描くほどには単純ではないということだ。「コロナウイルス」は、実際にはマクロンがそう呼んだように端的に「敵」として人間と対立しているわけではない。それは他の存在者らと絡み合いながら生態系の一部を成しているのだ。

「友敵」を強調すれば、社会的分断につながる

「友敵」のような対立構造は、新型コロナウイルスの問題を考える場合に必ずしも適したレトリックとは言えないのではないか。社会的なレベルでみても、指導者たちによる「友敵」の強調は、悪くすれば「感染者バッシング」や感染が疑われる人々の差別へとつながりかねない。過度に社会的分断を煽る可能性をもつレトリックを、積極的に用いるべきではないだろう。

とはいえ、人間社会に甚大な被害を与えているコロナウイルスを手放しで迎え入れることなどできない。コロナウイルスと人類にいかなる「共生」が可能なのかという困難な問いは、何れにせよ残ったままだ。

哲学者のティモシー・モートン(Getty Images)

この問いを考える上でモートンは、ウイルスの「宿主」という意味がある英語の「host」の語源となったラテン語の「hostis」が持つ両義性に注目する。

「生とは両義的なものなのです。ラテン語hostisは、主人、客人、友人、敵を意味します。したがって『歓待(hospitality)』とは、あなたがドアを開く相手は殺人鬼かもしれないということを意味しています。私は死にたいとは思わないし、このウイルスによって誰にも死んでほしくないです。しかしここで私は『活発に生きる(alive)』ということが『生き延びる(survival)』ことと対照的に何を意味しているのかを理解したのです」

モートンによれば、「コロナウイルス」との「共生」とは、友であるかもしれないし、殺人鬼であるかもしれないものとの「共生」を意味している。タイトルの”Thank Virus for Symbiosis”という面食らうような表現も、「Thank friends」という常套句を「Thank virus」と言葉遊びすることで、そのことが含意されていると思われる。

「生とは両義的なものなのです(Life is ambiguous)」とモートンが述べるとき、そこでは本質的にこのような両義性をもつ存在との「共生」が含意されている。

一方で、もしあらゆる友人に対して感染者ではないかという疑念を抱き、彼らの全てを拒絶してしまったとしたら、わたしたちの生活は生き生きとするどころかおそらく破綻してしまうだろう。しかし他方で、コロナウイルスは殺人鬼でもありうる。したがって決して部屋のドアを開けてはならず、わたしたちは引きこもることでコロナウイルスを遮断し、生き延びていかなくてはならない。

モートンによれば「生(life)」とは、「alive」と「survival」が織りなすこのようなジレンマそのものであり、どちらか一方に偏ってしまっては、われわれは「生」を失うことになる。「生」の意味がもつこの「両義性(ambiguity)」に配慮することこそが、モートン流の「生の哲学」が重要視していることだ。

ウイルスと共生する時代の倫理は

ニューヨークタイムスは3月初旬、「コロナウイルスで世界経済はサバイバル・モードへ」という記事を掲載したが、世界中で先の見えぬロックダウンが続く今や、生活の全領域が「サバイバル・モード」へとすっかり変貌してしまった。しかし、モートンのエッセイが示唆するように「生」にとっては「alive」と「survival」の両義性こそが重要であり、ただひたすらに「生き抜く」ことだけを目指す硬直性は、むしろ私たちの「生」を破壊しかねない。

ロックダウン下のニューヨーク。人通りは少ない(Getty Images)

「感染者バッシング」や、感染拡大の初期段階にしばしばみられた中国人や日本人を含む東アジア出身者たちへの差別などは、モートンが語る「生」の「両義性」に配慮できなかった例だといえるかもしれない。生き抜くことだけを目指し、友を歓待することをやめ、新型コロナウイルスに感染する可能性を完全に排除しようと差別することは、反対に「生」を破綻させることに繋がるだろう。

モートンの哲学は、経済的損失を懸念するがあまり新型コロナウイルスの危険性を軽視し「活発に生きる」ことを求める主張にも、感染拡大を恐れて警察権力などを動員して人々を隔離することを強いる主張にも、そのどちらにも与しない。

あるモノの「美しさ」が一定の限度を超えてしまうと全てが台無しになってしまうように、「パンデミック」下の私たちの「生」もバランスを欠けばすぐさま壊れてしまうだろう。モートンのエッセイは「美とはウイルスである(Beauty is a virus)」という詩的な命題で閉じられているが、ここにはウイルスとの「共生」が求められる「パンデミック」下のわれわれの「生」が、いかに慎重に気遣われねばならないかというメッセージが込められているといえる。

今まで見てきたように、モートンが批判しているのは、私たちの「生」を「alive」か「survival」かという硬直した二元論に押し込めてしまう議論のあり方そのものだ。そうだとすれば、どちらにも偏らない「生」への気遣いこそが、コロナウイルスと「共生」する時代の倫理の導きの糸となるのではないだろうか。

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